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娘は晴れて公立高校の美術科の1年生となった。
だけど、世の中はコロナ真っ只中。
入学式も保護者一人で、翌日からも緊急事態宣言で5月末まで休みが続いた。
その後もクライメイトが全員揃う事はなく、午前と午後に分かれたりで、友人はあまり会えず、なかなか思うような高校生活のスタートではなかった。
ありがたいことに、併願校の受験時に話しかけられた子と友達になり、高校で同じクラスになったのだ。
一年生の時は、デッサンや水彩画を主にやっていたように思う。そして、この学校では美術系の学科の子は全員「美術部扱い」になる。部活に所属しているつもりはなくても美術部に入っていることになるのだ。
2年生からは日本画、油画、版画、彫刻、デザインへと専攻が選択できるが、油画を専攻。
仲の良い友達もみんな油画専攻で、放課後にも残って絵を描いたり、合評の前は早朝の電車に乗り、朝から描くなど、油画の面白さにはまっていた。
相変わらず、親の心子知らずでいい加減なところも多々だったけど(自転車の鍵はいつも無くなる(最終的に見つかるが)、どこに出掛けているか連絡せず消える)三者懇談で成績を見せられた時だけは別人のように積極的になり
「なんで素描はこの点数なんですか?」
「うちより上はいるんですか?」
「それは何人ですか?」
「うちはなぜその子たちより低いんですか?」
と先生にはっきりとズバズバ聞いていて、こちらがびっくりするほどだった。
いつもはふわふわしているけれど、絵に関しては誰にも負けたくない!という負けん気がメラメラとしていた。クラスでの絵の順位にこだわっていた。
こういう学校なので、夏期講習や冬季講習もあり、美術予備校や画塾に行かなくても学校でしっかりと絵を見てくれる環境だったのだ。
だけど、2年生の春休みに「どうしても画塾に行きたい!」と言うので、色々調べ近所に最近出来た画塾に通った。春休みだけの講習はないということで、1か月だけ週2日通うことにしたのだ。
どうしても画力を伸ばしたい、という思いがあったようだ。
画塾の先生からは、「絵の他の遊びは何もかも諦めて本気でやったら東京藝大を目指せるかも」と言われたらしいけど、「東京藝大に行きたいと思わんし、何もかも諦めるのは嫌や」と娘は言っていた。
入学当初から、学校の志望校の欄には「金沢美大、京都市立芸大」と公立の美大を第一志望に書いていた。
高2の12月の懇談では、金沢美大は現役合格は難しいだろうと判断し、京都市立芸大を第一志望としていた。
金沢美大はあまりにも倍率が高く、難しいだろうと思ったのだ。
高校からも、京都市立芸大は毎年数人入っているので、「頑張れば入れる学校」という位置づけだった。
一方、金沢美大は、同じ学校からも数年間一人も行っていなかった。
では専攻はというと、当時は「油画専攻」という選択肢しかなかった。油画は特に倍率が高い。金沢美大ではひとつの絵を2日間かけて仕上げるという長期戦の試験だった。根気と精神力と体力、全て必要になってくる。
公立志望、でもそれは本人がどうしても行きたいというよりは、学費が安いからとか、親の意向がだいぶ入っていたと思う。
ママ友経由でも、娘が幼馴染に、「うちは国公立大学しか無理やから」と言っていたと聞いた。ちょっと心配している様子だった。このまま突き進むべきかどうするべきか。
高1の時はポスターで賞をもらい、翌年の学校案内に掲載された。
高2の時は油彩画で県内コンクールで受賞し、また翌年の学校案内に掲載された。
でも本人はずっとずっと色々悩んでいたのだ。
勉強が苦手だということを。
公立の美大は共通テストを受けないといけない。
そしてその点数と絵の点数の合計点で競う。
娘の高校は偏差値50ぐらい。
普通ではとても国公立大学に入れる偏差値ではない。
絵が他の人よりも上手く描けてやっと合格を争える出来るレベルなのだ。
高2の1月から英語だけ習いたいと個別塾に通っていた。
さらに、娘には2歳年下に弟がおり、さらに7歳下に妹がいる。
進路で経済的負担になると下の子たちにひびく。
そんな中、娘が高校2年生の2月、弟は私立高校を専願したのだ。
はじめは公立の併願校の見学で行った私立高校だった。
でも最終的に、将来の夢の為に、高校で勉強の手厚い私立へ行って、あわよくば大学で国公立へとの一縷の望みをかけて、私立高校を専願することにしたのだ。何より、魅力的な学校に出会ってしまったのが一番大きかった。
弟の私立高校合格が発表された日。
娘は言った。
「これでうちの多摩美はなくなったな。」
彼女ははっきりとそう言ったのだ。
多摩美に行きたいとはっきりと言ったことはなかったが、「多摩美なら受かる気がするねんな」と前から言っていたのだ。
それは美術系高校だったので、毎年多摩美から合格作品を学校まで持って来て見せてもらい、色々話を聞ける機会があったらしいのだ。
娘の中ではなぜか、武蔵美は勉強が難しそう、多摩美は絵が描けたら行けそう、の構図が出来ていたようだ。
そう言えば、春に行った画塾も多摩美出身の先生がやっている画塾だった。
先生は二浪の末に一番行きたかった専攻ではないがグラフィックに受かり、グラフィックに行った人だった。先生は50歳前後の方なので、当時は今よりもすごく倍率が高かった時代だったと思う。
娘は本当に行きたいのは多摩美で、でも親に言えずにいたんだと私の中でもやもやが一気に広がったのだった。
娘に多摩美に行きたいの?と聞くと、多摩美やったら受かる気がするねんな、と言った。
そして、「でも無理やろ?」と。
公立の美大に落ちたら、関西の私大の美大に家から通ってもらおうと、その時私たち親は考えていたのだ。
今思えば、京都市立芸大へ行きたいと本気で思っていたなら、興味を持っていたなら、資料を取り寄せたりオープンキャンパスに行ったりしていたのではないかと思う。でも一切していなかった。きっとはじめから京都市立芸大に「行きたい」とは思っていなかったのだ。
娘が入学する年の4月から、京都市立芸大のキャンパスは京都駅前へと移転し新キャンパスになるというのに。その新しいキャンパスにも何一つ魅力を感じていなかったのだ。
美大の学費は高い。
多摩美術大学は、その中でも初年度納入金額が日本一高い美大だったのだ。